一、はじめに
 私は、(株)長崎経済研究所(十八銀行の関連会社)で「長崎歴史文化協会」および「長崎日本ポルトガル協会」の事務局を担当しています。最初に、今回の研修会に参加させていただき、また『ながさきの空』での報告の機会を与えていただいたことに、感謝申し上げます。
 ところで、両協会では年一回、共催にて「キリシタン史跡研修会」を実施しており、今年度は去年の十一月二十七日(土)、会員四十名が参加し、南高加津佐、口之津両町に残るキリシタンの史跡を巡り、神父達の布教および信者に対する迫害などの歴史や両町に伝わる伝説などを学んだ。
 そこで、本稿では研修会を振り返り、その足取りを再現してみようと思う。

二、加津佐・口之津キリシタン史跡をさるく
 越中哲也先生を団長とする一行は、朝八時半に長崎を出発し、加津佐史談会長福田八郎先生と待ち合わせ場所の小浜へと向かった。
 福田先生といえば、六月に開催した「キリシタン歴史文化研究会」で『加津佐を中心にしたキリシタン遺跡について』というテーマで講演をいただいた方であり、その福田先生に加津佐を案内していただけるとはなんと贅沢な企画なのだろうかと思った。
 福田先生がバスに乗り込んで来られた。いよいよ史跡研修会の始まりである。その前に福田先生には、今回色々な面で大変お世話になり、誌上をお借りして御礼を申し上げたい。
 今回のコースを簡単に紹介しておこう。花房展望所をスタートし、加津佐古城之跡〜巌吼寺(がんくうじ)〜白浜キリシタン墓地〜山田右衛門作(えもさく)住居跡〜南蛮船来航の地〜口之津資料館〜須崎キリシタン墓地の順に見学して回った。

(一)加津佐古城之跡にて
 ここは、今回の史跡研修会の中でもっとも注目すべき場所であった。というのは、わが国最初の洋式金属活字本『サントスの御作業の内抜書』というローマ字による日本文の聖人伝抜粋が一五九一年出版されたとされる"コレジョ"の跡であったとされているからである。
 まず、長崎史談会の幹事で古代城跡研究家であられる荒濱茂先生が「この竹林は、矢竹といっていざという時の武器に使用したもの。また、城壁の一部であったと思われる石垣は恐らく一五〇〇年代のものと推定される。さらには、北西の方角に開けていることからも砦を築くのには最適の場所と考えられる」等と説明された。続いて、福田先生は「公の場所であり、居住区を伴っていたはずであり、そういう処に神学院が移転してきたものと考えられる。また、ここへの道は一ヶ所しかなく、海辺に出口のある、心の慰安に適した場所であったのではないだろうか」と解説された。さらに、純心大学の片岡留美子教授が「これだけの広さがあれば、百数十名いたとされる宣教師や生徒たちの学院としては十分だと思われる」と話された。こうした諸先生方の発言を受けて、最後に越中先生が「城のあった位置や形状、敷地の広さ、また近くにキリシタンゆかりの建物等があったとされることから総合して考えると、かつてここにはコレジョがあったと推測される」と締めくくられた。
 先生方のこうしたやり取りを聞きながら、私は何か大発見をしたかのような感動すら覚えながら必死にメモを取っていた。

(二)巌吼寺(加津佐)にて
 岩戸山のふもとにあるこのお寺は、曹洞宗明峰派・大智禅師が開創した円通寺の流れをくむお寺であるといわれている。寺の裏山には大智禅師の石像があり、その途中に猿を刻んだ塔がある。地元の人は「お猿の墓」と呼んでいるそうだが、これは次のような伝説に由来していることを学んだ。
 その伝説とは「むかし、岩戸山にはたくさんの猿が住んでいた。大智禅師が座禅石の上で目を閉じて座禅をくんでいると、いつも一匹の小猿がやって来て行儀よく並んで座っていたので、禅師も大変可愛がっていた。そこへやって来た百姓がこれを見て、小猿をからかってやろうと思い、岩から海へ飛び込む真似をしてすぐ下の松ノ木にぶらさがった。小猿はそんな事とは知らず、百姓の真似をして海へザブンと飛び込んでしまったので、泳げない小猿はそのまま沈んでしまった。大智禅師は大変かわいそうに思い、小猿の姿を石に刻んでこの墓を建てた」というものである。

(三)南蛮船来航の地(口之津)にて
 一五六三年、有馬義貞の招きによって、ルイス・デ・アルメイダが口之津に教会を開設し、翌年トーレス神父はそこへ移り、口之津は一時キリシタンたちの本部となった。一五六七年、最初のポルトガル船が口之津に入港した。また、一五七九年には、ヴァリニャーノ神父が上陸し、この地でセミナリヨの会則などを編纂したとされている。一五八二年までに入港したポルトガル船は7隻を数え、当時の口之津港は南蛮貿易港として栄えた。
 今や石碑を残すのみであるが、往時の繁栄ぶりを口之津町立「歴史民俗資料館・海の資料館」で見ることができた。現在は、開田公園として整備され、パルテール広場や多目的広場・休憩所を兼ねた展望所・浸水対策の整備池を利用した園路広場は、異国情緒あふれる景観と自然環境に配慮した公園となっており、平成十二年には建設大臣賞を受賞している。

(四)須崎キリシタン墓地(加津佐)にて
 ここの共同墓地には6基のキリシタン墓碑があり、うち3基が県指定史跡に指定されている。ここは『九州のキリシタン墓碑』の著者・荒木英一先生の出番である。同先生からは、「浮彫カルワリオ十字紋入り平蓋石型で、縦六一センチ、横幅八三センチと横長の墓碑は、九州一円でも類例がないものである。また、蒲鉾型で、正面軸部一重の縁どりを持つ浅い窪みをつけ、慶長十八年□月二日 年二重九 石村寸と草書体で刻んでいる」などの説明を受けた。

三、おわりに
 こうして実際に現地での研修会に参加し、その時々でいろんな方面の先生方から歴史や伝説などを教えていただき、またひとつ知識が増えたと思うと何故か楽しくなってくる。本来、歴史の勉強とはそういうものではないだろうか。
 お昼にいただいたあらかぶの味噌汁のおいしさを思い出しながら、一行は有明海に沈むきれいな夕日を背に加津佐を後にした。
 最後に、帰りの車中で越中先生から、次回は外海方面に行くことが発表されると、拍手が起き歓声が湧き上がった。午後六時、予定通り長崎に到着。参加された皆さん大変お疲れ様でした。


風信

今年の「大寒」は暦どおり「おお寒」でしたが、節分(二月三日)の「鬼火だき」も、先年来長崎名物になった「ランタンF」も盛会であり、全て目出度き新春の出発でした。
本年の新春の集いの時、本会の中国研修旅行会の原田正美会長より「今年は先年来延期してきた「チベット研修旅行」を八月末に実施しますとの発表あり、長崎刺繍研究会の嘉勢会長より「第二回長崎刺繍のルーツを訪ねる会」を三月三十一日より四月四日まで中国刺繍発祥地開封を中心にした地区を見学するとの由。(共に参加希望者は事務局上田まで連絡下さい)
長崎雇用能力センターと長崎中学校の御依頼で旧正月元旦に当る二月四日午後二時より二年生全員の「立志式」を開催するので「十四才という節目にふさわしい」話をするよう依頼をうけた。思えば、昭和二十三年一月十五日最初の長崎市成人式があった時、私が当時、長崎市連合青年団長という事もあって、会場には三菱会館(出島)を借用し挨拶させられた事を思い出し、私自身の人生の移り変りを話させて戴いた。
長崎大学の若木太一教授、姫野順一教授の御連名で故安田克廣教授の御功績を中心に編集された「幕末維新」をいただいた。同誌には安田教授が開拓された「幕末・明治初期に我が国に移入された科学意識(写真術)を中心に日本の近代化の研究に新分野」が述べられていた。而もそれが長崎を中心に展開されていて私達には大いに参考となった。(明石書店刊・二五〇〇円)
長崎純心大学「長崎学研究・第七号」(長崎と中国山東文化・出島研究・シーボルト研究 越中哲也氏・宮坂正英教授共著)と「ながさきの空・第十六集」発刊されました。希望者は事務局まで(無料・送料別)